EXECUTIVE COMMITTEE|実行委員


○ 実行委員

委員長 松隈 洋 (京都工芸繊維大学・美術工芸資料館教授)
特別顧問 故・長谷川 堯 (武蔵野美術大学・名誉教授)
  大原謙一郎 (大原美術館・名誉館長)

藤森照信 (東京都江戸東京博物館・館長/東京大学・名誉教授)

松葉一清 (武蔵野美術大学・教授)

上田恭嗣 (ノートルダム清心女子大学・人間生活学科特任教授)

花田佳明(神戸芸術工科大学・環境デザイン学科教授)

笠原一人 (京都工芸繊維大学・助教)

重村 力 (いるか設計集団・会長/神奈川大学・客員教授/神戸大学・名誉教授)

古谷誠章 (早稲田大学教授/NASCA代表)

太田隆信(坂倉建築研究所・元代表取締役/太田隆信スタジオ主宰)

竹原義二 (無有建築工房主宰)

楢村 徹 (楢村徹設計室主催/広島大学・客員教授)

遠藤秀平 (神戸大学・大学院教授/遠藤秀平建築研究所主宰)

曽我部昌史 (神奈川大学・建築学科教授/みかんぐみ 共同主宰/横浜展ワーキンググループ座長)

柳沢 究 (京都大学・工学研究科 准教授)

和田耕一 (和田建築設計工房/西条栄光教会の研究)

幹事 西村清是 (浦辺設計・代表取締役)


○ 協力委員

  浦辺太郎 (浦辺鎮太郎・長男)

浦辺真郎 (浦辺鎮太郎・次男)

浦辺徹郎 (浦辺鎮太郎・三男)

  ・

松村慶三 (浦辺設計・名誉顧問)

辻野純徳 (ユー・アール設計・相談役)

森本正一 (浦辺設計・元取締役)


○ 専門委員

  中四国

福濱嘉宏(岡山県立大学・デザイン工学科教授/倉敷市都市景観審議会委員)

江面嗣人(岡山理科大学・建築学科教授/倉敷市伝建審議会委員)

平山文則(岡山理科大学・建築学科教授)

中村陽二(岡山県建築士会・副会長/倉敷市伝建審議会委員)

大島秀明(福山大学・工学部建築学科教授)

佐藤圭一(福山大学・工学部建築学科教授)

酒井 要(福山大学・工学部建築学科助教)

関西

浅井 保 (神戸大学・大学院工学研究科建築学専攻助教)

槻橋 修 (神戸大学・大学院工学研究科建築学専攻准教授)

畑 友洋 (神戸芸術工科大学・環境デザイン学科准教授)

有村桂子 (いるか設計集団・代表取締役)

田原幸夫 (京都工芸繊維大学・KYOTO Design Lab 客員教授)

角田暁治 (京都工芸繊維大学・准教授)

小池志保子 (大阪市立大学・生活科学研究科 准教授)

朽木順網 (大阪工業大学・空間デザイン学科准教授)

橋寺知子 (関西大学・建築学科准教授)

白須寛規 (摂南大学・建築学科講師)

出江 寛 (出江建築事務所・代表取締役)

平田隆行 (和歌山大学・システム工学研究科准教授)

関東

中井邦夫(神奈川大学・建築学科教授/NODESIGN 一級建築士事務所 共同主宰)

石田敏明(神奈川大学・建築学科教授/石田敏明建築設計事務所主宰)

山家京子(神奈川大学・建築学科教授)

内田青蔵(神奈川大学・建築学科教授)

吉岡寛之(神奈川大学・建築学科助教)

鈴木伸治(横浜市立大学・都市社会文化研究科教授)

上田知正(東京造形大学・室内建築専攻領域教授)

宮 晶子(日本女子大学・住居学科准教授)

順不同・敬称略




○ 展覧会企画から実行委員会立ち上げまでの経緯

 私は浦辺先生(浦辺鎮太郎)に自分の描いた絵を見ていただき、当時の浦辺建築事務所に入社を許されて以来、過剰な自我から解放されて、一心不乱に建築の仕事に打ち込んできました。浦辺先生はそんな私を絵描きと呼ばれて、少しは気にかけていただいていましたが、建築の仕事で呼ばれることはなく、私の建築の道はもっぱら松村所長(松村慶三)に仕込まれたものです。そんな私が浦辺先生の建築展を企画するきっかけは村野展でした。浦辺建築事務所時代の若手教育は浦辺先生が心酔する村野流の設計作法による教化が中心で、私もどっぷりとそれに浸かっていましたから、とても懐かしく感じました。また、学生達が造った建築模型群に圧倒されると共に、建築を志す純粋な心に包まれる思いでした。実はその時、旧知の松隈先生(松隈洋 京都工芸繊維大学・教授)から浦辺展をしてはどうかと持ち掛けられていたのですが、実行を決意するのに数年を要してしまいました。実行を決意するきっかけは自ら課した宿題の提出期限を意識せざるを得なくなったというのが一番です。おそらく私は直弟子ではないにせよ、浦辺設計の継承者の立場からすれば、私の後にはもう浦辺先生を直接知る者はいないという事実からくるものです。2003 年に御子息たちの強い思いから浦辺鎮太郎作品集が刊行されていますが、今一度事務所の資料を総ざらいして、記録に残す責任があるとの思いです。また、村野展での模型製作のごとく、浦辺展の模型製作はそれに携わる学生たちにきっと大切なことを気付かせてくれると信じるからです。

 もう一つの理由は、現代社会が建築を人々の幸せから遠ざけていることに対するささやかな抵抗です。1982 年に発行された建築誌PROCESS の対談記事の中で、浦辺先生は敬愛する大原總一郎のゲマインシャフトへの思いを形にすることについて語っています。これはとても大変な仕事だけれども、それを実現するためには「新旧調和」や「三笑主義」という浦辺流建築作法があり、ここには建築に関わる人々を幸せにする手がかりがしっかり示されています。私はこの建築展を通してもう一度このことを世に問いたいと思いました。実行に当たっては、実行委員会を組織することが求められました。私は確かに現在の株式会社浦辺設計の代表取締役として、この展覧会を企画いたしましたが、決して私の私心や事務所の利益を追求するものではありません。浦辺鎮太郎という一建築家がなしえたことの意味を公に問い直すことが目的です。このことは、最初の相談者であった松隈先生と共に、多くの建築史家、建築家の先生方に協力要請をさせていただく中で、より鮮明になっていきました。実行委員会組成の初期段階で大原美術館の大原謙一郎名誉館長に実行委員に就任いただけたこと、武蔵野美術大学の長谷川堯名誉教授に実行委員特別顧問に就任いただけたことは、その後の実行委員会の方向性を決めるうえで極めて重要な意味を持ちました。松隈実行委員長をはじめ、建築界の重鎮から新進気鋭まで多士済々の方々に実行委員と専門委員に就任いただくと共に、浦辺鎮太郎に最もご縁の深いご子息や直弟子の大先輩の方々の協力を得て、『倉敷の建築家 浦辺鎮太郎建築展』の実行委員会を組成するに至りました。改めて関係各位の皆様のご理解に対し心から感謝の意を表したいと思います。

株式会社浦辺設計 西村清是